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 何だかわからないというのは、無のようなものではなくて、
「ほとんど無」のようなものである。

不在という現前、もしくは現前する不在である。
それゆえ、それは偏在しているものである。

それは、不可解なほどいたるところにあるのだが、
いかなる場所も占めてはいない。

それは、近くて遠いもの、
此処にして他所にあるもの、
それ自身にしてそれとは別のもの、
今にしてもっと後のものでもある。

これにたいして、一義的で曖昧さのないものは、
ある種の自己中心的な視点に関連していて、
ただあるかないかだけ、ただ現実か未来かだけのことであって、
総じてそれ自体、非―存在や他性とまるで交わるところがない。

(中略)

 何だかわからないものとは、また、
いつだかわからないということである。

たとえば、わたしたちが定義しようとしている魅力[charme]は、
いつも不在でどこか他所にあるというばかりでなく、
さらにいつも決まって遅れてやってくる。

それは、いまだあらずであって、無限に先送りされる。

それは、やがて二十四時間のあいだに今日となるであろう
経験的な明日なのではない。

それは、際限なく繰り返される明日であって、
今なのではない。


(中略)


 何だかわからないもの、それは平和の状態である。

それは、武装した休戦なのでも、宙吊りの敵意なのでもない。

そうではなくて、怒りと争いの季節を終結させる
穏やかな恩寵[grace]である。

かくして、魅力のカタルシスによって和らぎ弛緩した
思慮深い魂は、他者と、そして自己とを和解するのである。




ウラジミール・ジャンケレヴィッチ著
『何だかわからないものとほとんど無』の一節
(岡田温司『半透明の美学』より)
2011.12.31 Comment:0 | TrackBack:0
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